みゆぷり日記

楽しいおでかけ、おいしいおやつ

努力は報われるか


がんばった人が報われる社会なんて嫌だ - 意味をあたえる

この記事に同意する。「努力は報われる」「〜ができないのは努力がたりないから」とよく聞くけど、それは自身のみに適用してほしい。他人や、世の中に向けてその言葉を向けることが私は理解できない。

先に言うと、私は、自分の努力は報われるし、私が苦手とすることは大抵の場合努力がたりないからだと思っている。でも、自分以外はわからない。人は、ある能力が著しく低かったり、欠如していたり場合がある。身体的にも知能的にも精神的にもそう。知能に障害がある人に「お前が東大に受かれないのは努力がたりないからだ」と言い切れるか。「障害がある人は別だ」というかもしれない。障害ってなんだ。知能指数が70未満?69の人は障害があるから無理で70の人は努力不足とかになるのかな。理解できん。

知能指数で示せなくても、高次脳機能障害のように特定の何かができないという場合もある。障害と名がつかなくても同様。他の能力や道具、工夫でカバーでき日常生活に支障ない「できないこと」は「障害」と呼ばれない場合が多い。病気や障害だったらしょうがないと言い出す人は、診断が下りていない「できない」には不寛容だなと思う。

一部の人をのぞいた世の中に何かを適用しようとするのは、除いた一部の人への差別だ。除く基準も曖昧だ。そして、特定の人に「お前が〜ができないのは努力がたりないから」だというならそれはかなり踏み込んだ干渉だということを自覚すべきだと思う。例えば、仕事上の関係で、業務上必要な能力が欠如している場合なら、努力しろというのはあることだと思う。そういう場合は別だけど、何かができなくて、それが努力でどうにかなることだとわかっていても、それは「努力しない」という選択の結果である場合もある。努力するにはリソースを割く必要がある。リソースは有限である。何かできるようになってほしい場合には、努力すればできると説くより、それがなぜ必要で、できるようになるとどういうメリットがあるか説明してほしい。

「そんなのできて当たり前でしょ」これも理解できない。仕事とか何かしらのふるいにかけられた集団に向けたメッセージならわかる。業務上当然に必要な能力はあると思う。そうでない場合には、相手に「自分の」常識を勝手に押し付けているだけだと思う。「何でできないの?」これも理解できない。指導のためならわかる。できるようになるために必要なことを考えさせる意図があるなら。その意図で発現するなら、自分がなぜできるか説明できることが前提だと思うけど。

自分ができることは誰でもできて当たり前って考えが根底にあるのかなあ。