みゆぷり日記

楽しいおでかけ、おいしいおやつ

20110311

わたしは福島県福島市の実家から宮城県仙台市の大学に通っていた。3月に入り卒業と就職を控え、内定先の研修に勤しむ毎日。実家に一人暮らし。両親は転勤で会津若松の社宅に、姉は実家を離れて京都で社会人をしていた。

その日は研修が休みの日だった。朝起きてイングリッシュマフィンを4つ使ってクロックムッシュを作ってみたら、予想を超えたボリュームになり2つ残した。明日食べようと思ってラップをかけ、寒いキッチンに置いた。

午後からは同じ大学の友人とサイゼで勉強会の予定が入っていた。車で拾ってくれるというので近所のローソンで待ち合わせをした。ディズニーランドのお土産をくれた。チョコクランチ。

サイゼでドリンクバーを注文し、なんとなく普段は飲まないメロンソーダをついできて、雑談しつつお勉強タイム。ふと、メロンソーダの水面が、筆箱の中身が、細かく鋭く揺れ始める。初期微動だ!緊急地震速報と大きな揺れがきた。友人がパニックで泣き叫ぶ。大丈夫、揺れ自体ではきっと死なないと言いながら友人を抱きしめる。店員さんが窓から離れてください!と大きな声を出す。店員であることを放棄しないことに感心する。窓から、向かいのびっくりドンキーの看板が見えた。看板の上のびっくりマークが今にも落ちそうだと心配したけど落ちなかった。

長い揺れがおさまった。電気が消えた店内。お客さんが順番に精算をして帰って行く。私たちは車で友人の実家へ向かった。道中、ナビでテレビを見ていた。津波の映像が流れた。大変なことになっている。でも全貌はわからない。信号が消えた街を、譲り合いながら進む。ブロック塀が倒れていた。水道管が破裂し、マンホールが外れ1mくらいモコモコ水が出ていた。モンスターみたいだった。

なぜか友人宅は電気が生きていた。友人の祖母がこたつに入りながら見ていたテレビでは、やはり津波の映像が流れていた。

友人はわたしを車で家に送ってくれた。家にひとりで入る。中はめちゃくちゃ。家具はかなり倒れていた。それを免れた観音開きの食器棚も余震で大きな音を立てていた。今にも開いて食器が飛び出そうになっていたので、扉をセロハンテープで貼りまくった。キッチンの蛇口が落下物で開き水が勢いよく出ていて、水道が生きていることを知る。電気は死んでいた。仏壇から落下していた祖父母の位牌を戻す。線香を刺す器が落ちて灰まみれなのを見て、掃除機で吸おうとしたけど掃除機が動かない。電気死んでるんだった。余震がひどくて座布団を頭に載せながら右往左往する。なぜか綿棒をばら撒いた。2階に上がると、両親が普段寝ている位置に大きな棚が倒れていた。怖い。自分の部屋に入り、姉が就職祝いに送ってくれたバッグが無事なのを確認して、余震がさらにきても大丈夫なように部屋の真ん中に置き直した。

もう夕方。ひとりで実家で夜を明かすのは辛かったので、近所の幼なじみの家を頼った。幼なじみはスキーに行っていた山で地震に遭ったからかあまり揺れを感じず、下山後に状況を把握してとても驚いたらしい。

幼なじみのお母さんが、幼なじみの部屋にわたしの分の布団を敷いてくれた。夕飯は朝作ったクロックムッシュを持参し冷たいまま食べた。ガスが生きていたので暖かい飲み物をいただけた。お腹いっぱい。部屋では最初ローソクを付けていたが、余震で倒れそうだったので懐中電灯を使った。街灯が消えた外はただ暗かった。たまに救急車の赤い光が見えた。

床に就いてからも余震は続く。怖い。呼吸が浅い。緊張している。ほとんど眠れないまま朝を迎えた。

それから9年。先日、このページを見てこの日を思い出して、出来事を文章にした。

米津玄師さんの曲はどれも心に残り、独特に感じます。パプリカは子どもたちも大好きです。曲なのかメロディなのか詩なのかリズムなのか、技巧として他のアーティストと異なる特筆する点があるのでしょうか?に対するNobuhiko Izumiさんの回答 - Quora

もうわたしは被災者ではない。記憶を供養するべくブログに残す。