みゆぷり日記

楽しいおでかけ、おいしいおやつ

能登半島地震が起きてから何度か考えていること

東日本大震災のとき、わたしは故郷である福島県に両親をおいて京都に逃げた。実家は沿岸部でも原発至近でもなかったので、今となっては実家付近にわかりやすい震災の爪痕はなく、両親も健在だが、震災のほんの数日後、わたしは親と故郷を捨てて遠くに逃げるんだという、強烈な挫折と無念の気持ちのまま高速バスに乗った。

今年のお正月に、能登半島で大きな地震があった。たくさんの人たちが亡くなり、今なお不便な生活に身を置く人たちがいるが、もともと「田舎」と呼ばれる場所で災害が起きると、必ず「住み続けないで引っ越したらいいのにね」という話が出る。復興に必要なお金を考えれば極めて合理的な意見かもしれない。意見自体は悪ではない。

わたしが両親と故郷を捨てて、姉の住む京都に向かうとき「親が死んでも自分は絶対に幸せに生きる」という覚悟が新しい生活を築く上でとても強いモチベーションだった。福島県の企業にもらっていた内定(震災により無期限の繰延)を辞退し、姉の勤める企業にアルバイトで雇用してもらい、初めての一人暮らしを始めた。仕事を覚え、簡単だけども資格をとり、生活を整え、友達をつくり、彼氏をつくった。人に恵まれて本当に幸運だった。それでもあのとき自分が吐き出したエネルギーは膨大で、躁状態に近かった。反動もあった。人は誰しも、生きる上で歯を食いしばり耐える時期があると思うけれども、壊れた故郷を捨て、新しい生活を築くモチベーションを、それなりの年齢層の方々に要求するのは、あまりに酷だと思う。

わたしは転勤族の子どもで、実家が建つまで福島県内を数年おきに転々として育った。同じ家、同じ場所でずっと暮らしてきた人とは違う。それでも災害でダメージを負った場所に大切な人たちをおいてひとりで逃げるのは相当な苦しさがあった。大学を卒業するタイミングで、そこで築いたものが少ないから旅立つことができた。まだ学生期間を残していたら、働き始めたあとだったら、逃げなかったんじゃないかな。

ある場所で生まれ、育ち、結婚し、子供を育て、ずっと生きてきて、死にゆく人を見送り、次は自分が、という気持ちでいた人が、その場所が突然壊れたとき、新しい場所で生きるモチベーションはどこにあるだろう。そうできる人はすごい。でもそうでない人も絶対にいて、誰も責められない。

わたしは被災地を「元通り」に復興すべきとは思っていない。お金や人を含め、あらゆる資源は有限で、優先度を決めて振り分ける必要があると思う。それでも、被災した人の苦しみは存在し、思いやりをもって対応がなされますようにと願う。みんな、安らかに死んでいける世界であってほしい。



そんなことを考えていたら今日は3月11日だった。